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曲水の宴

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曲水の宴(きょくすい<ごくすい>のえん)は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくるが自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、出来なければ罰として盃の酒を飲むという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう。(『広辞苑』第二版)

概要 編集

ファイル:Gokusui no En.jpg

日本書紀によると顕宗元年(485年)3月には宮廷の儀式として行われたとされる(「三月上巳幸後苑曲水宴」)。ただしこの記事から曲水に関する記事は続日本紀の神亀5年(728年)まで途絶えている。 8世紀聖武天皇の頃は再び記事が現れる。奈良時代にはこれらの行事は3月3日が常例となり、奈良時代後半には盛んになったが、平安時代には桓武天皇が3月に崩御したことから中止された。後に嵯峨天皇はこれを再開し、宮廷や貴族の邸宅などで行われるようになった。 摂関時代には内裏の公式行事として催されたが、『御堂関白記』には寛弘4年(1007年)藤原道長が主催したとする記事があり、『中右記』には寛治5年(1091年)藤原師通が主催したとする記事がある。『天満宮安楽寺草創日記』によると、大宰府でも天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐・小野好古が始めたとされるが、中世以降は断絶した。

起源説 編集

テンプレート:独自研究 中国においては、古い時代から上巳に水辺でを行う風習があり、それが3月3日に禊とともに杯を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公の時代に始まったともの昭王の時代に始まったとも伝えられている。永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が曲水の宴を催したが、その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である。そして、上巳の水辺の祓と曲水の宴が日本に伝わったとされる説があるテンプレート:要出典

顕宗元年の時期ならば曲水は中国ではさかんに行われていて、日本にその風習が伝わっていても不自然ではない。しかし、魏(220年~265年)以降「3日を用いて上巳を用いず」としており、顕宗の記が依然として上巳を用いているほか、顕宗の記2年の条では喜び集まったの記載にある公卿以下といった冠職姓は7世紀ごろの呼称であり、公式の記録も8世紀まで飛んでいるため、この記事については日本書紀の編者が挿入したとみられ、史料としての信憑性は低いテンプレート:要出典

権勢を誇った藤原氏などは中国に倣って船を浮かべたりしたともいう。中国伝来の行事と日本古来の風習が習合した上巳の祓は、3月3日の桃の節句雛祭り)に発展したとされるテンプレート:要出典

その他 編集

ファイル:Motsuji yarimizu2.jpg

日本においては、宮廷の催しごと(主催者は天皇)として行われた。しかし『万葉集』巻十九には、中納言大伴家持が曲水宴を詠んだ「漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽我勢故 花縵世余(からびとの舟を浮かべて遊ぶてふ今日ぞわがせこ花かづらせよ)」があり、天平勝宝2年(750年)には私的な遊びとして催されていたことがわかる。

東北地方でも多賀城平泉毛越寺に曲水の宴の跡が認められるという意見もある。しかし、平安時代の造庭法秘伝書『作庭記』に、池・中島・滝・泉・前栽などに加えて遣水についても詳しく述べられているように、当時の奥州の庭園に曲水の宴を催すことのできる曲溝があるのは不自然ではない。また、曲水の宴を催すことのできる遺構が確認されたとしても、曲水の宴が必ず催されていたとは言えない。

また、福岡県久留米市でも、8世紀以前の曲水の宴の跡とされるものが発掘されており、筑紫の君磐井が「天皇の命に従わず、礼無きことが多かった」と非難された理由の一つであるという見解もある。更には九州王朝が存在した証拠であるとする主張もあるが、東北地方と同じく、遺構は必ずしも曲水の宴が催された証拠とは言えない。

各地の曲水の宴 編集

現在行われている曲水の宴は、いずれも上記の故事に基づいて近代以降に復元したものである。

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韓国 編集

曲水の宴は、古代朝鮮でも盛んであった。慶州市の南4kmにある西南離宮・鮑石亭は、「流觴曲水宴」が開かれた場所として知られ、鮑模様の石溝・曲粋渠(국수거、クッスゴ、gugsugeo)が残っている。ここは927年新羅第55代景哀王が宴会を開いている最中に後百済軍に攻め殺され、新羅が滅亡に向かうきっかけとなった場所である。

関連項目 編集

Anime_stub.png このページはウィキペディア日本語版のコンテンツを使用しています。オリジナルのコンテンツは曲水の宴にあります。執筆者のリストはページの履歴で確認できます。日本ウィキアと同様に、ウィキペディア日本語版の文章はCC3.0-BY-SAの条件下で再利用できます。
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zh:曲水流觞

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