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越中おわら節

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越中おわら節えっちゅう おわらぶし) は、北陸富山県越中国富山市八尾町(旧婦負郡八尾町)で歌い継がれている民謡である。この民謡「越中おわら節」と、それにあわせて踊る「おわら踊り」について、以下に述べる。なお、多数の観光客が訪れる同地の行事「おわら風の盆」については別項を参照されたい。

ファイル:Kazenobon03.jpg

民謡「越中おわら節」 編集

来歴 編集

この民謡の起源については諸説ある(「お笑い節」説、「大藁節」説、「小原村発祥説」など)。その唄はキーが高く息の長いことなどから、島根県出雲地方や熊本県牛深市の「ハイヤ節」など、西日本の舟歌が源流になったものとの指摘があるが(長田・千籐編著、1998年、10頁)、長い年月を経るとともに洗練の度を高め、今日では日本の民謡のなかでも屈指の難曲とされている。

明治30年代後半のレコード創成期以来、全国各地の俗謡が次々とレコードに吹き込まれるようになって、民謡の洗練化の動きは加速していった。同時に、各地で開催されるようになった民謡大会、さらにはその全国大会などによって、それまで一地方の俗謡にすぎなかった曲が、全国的に知られるようになっていった。おわら節も1913年(大正2年)に初めてレコードに吹き込まれ、民謡大会でもよく知られる民謡となった。

さらに、今日のおわら節が完成されていく過程で、さまざまな唄い手の名手がいたことを忘れてはならない。なかでも、「江尻調」といわれる今日のおわら節の節回しを完成した江尻豊治1890年 - 1958年)の功績は計り知れない。天性の美声、浄瑠璃仕込みの豊かな感情表現。おわら節の上の句と下の句をそれぞれ一息で歌い切る唱法は、江尻によって完成の域に高められたのである。

おわらの歌詞 編集

歌詞の基本は、7、7、7、5の26文字で構成する甚句形式であること、最後の5文字の前に「オワラ」を入れることである。

唄は26文字で構成される「正調おわら」(「平唄」ともいう)が基本だが、これ以外に、頭に5文字を加える「五文字冠り」、途中字句を余らせて、最後を5文字で結ぶ「字余り」があって、それを歌いこなす地方の唄い手にもかなりの技量を要する。

これまで作成された歌詞は、大別すると、「おわら古謡」と「新作おわら」がある。おわら古謡は古くから伝わるもので、新作おわらは、野口雨情佐藤惣之助水田竹圃(~1958)、高浜虚子長谷川伸小杉放庵小川千甕(~1971)、林秋路(~1973)ら、八尾を訪れた文人たちによって新しく作られたものである。

その新作おわらについては、昭和3年(1928年)、八尾を訪れた画家・小杉放庵がおわら節を聴いて思うところがあり、みずから作ったのが「八尾四季」で、これ以後、新しく作られたものを新作おわらとしている。なお、この八尾四季に振り付けをしたのが舞踏家・若柳吉三郎で、これが「新踊り」(後述)となっている。

伴奏 編集

ファイル:BON04.JPG

おわら節の唄い手とともに、地方(じかた)としておわら風の盆の雰囲気を作り上げるのが、三味線胡弓太鼓の伴奏である。とくに胡弓が入るのは民謡ではややめずらしく、またこの楽器が悲しげな、むせぶような響きを加えることで、この民謡に独特の味わいをもたらしている。

胡弓がおわら節に導入されたのは、明治40年代、松本勘玄によってである。また、当時八尾あたりまでを門付のエリアとしていた越後瞽女 (ごぜ) の影響ではないかとも言われている。

おわら踊り 編集

来歴 編集

かつてのおわら踊りがどのようなものであったかを伝える史料は少ないが、天保年間に活躍した浮世絵師・鈴木道栄が丸山焼の下絵として描いた絵図が残っている。そこでは満月を仰いで踊る5人の女性が描かれている(成瀬編、2004年、108頁)。

おわら風の盆の町流しの原型といわれる「町練り」については、もう少し以前にさかのぼり、元禄年間、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するという(『越中婦負郡志』)。

そのころは阿波踊り同様、おもしろおかしく踊ってたらしい(そのことから、阿波踊りと何らかの交流があったとする説もある)。後に、品格を高める、ということから現在の、おわら節を使うようになった、という説がある。

豊年踊りと新踊り 編集

おわらの踊りは「豊年踊り(旧踊り)」と「新踊り」に大別される。

豊年踊りは、老若男女を問わず、誰にとっても楽しむことのできる踊りである。市が観光客向けに行う「おわら講習会」や、富山県内の学校の運動会などで踊られているのも、この豊年踊りである。次に述べる新踊りが後に振付けられて「新踊り」と称されたことから、こちらの豊年踊りは「旧踊り」と呼ばれるようになっている。

新踊りはさらに「男踊り」と「女踊り(四季踊り)」に分かれる。男踊りは、所作の振りが大きく、勇猛に躍り、女踊りは、艶っぽく、上品に踊るのが良いとされる。その両者とも、新踊りは昭和初期に日本舞踊家・若柳吉三郎によって振付けられた、主に舞台演技用の踊りである。もともと女踊り(四季踊り)にだけ唄に合わせた四季の所作が入っていたが、近年では男女混合で踊るときに、ペアを組んで妖艶な所作を入れたりもしている。なお、この所作は八尾の各町内ごとにいろいろと改良工夫がなされており、おわら踊りの特徴の一つとなっている。

衣装 編集

ファイル:Kazeb001.jpg
ファイル:Owara Dance 008.jpg

踊り手の衣装のデザインや色は、各町によって大きく異なるが、男性・女性ともに、編笠を深く被るのが特徴である。このように顔を隠すようにして編笠を被るのは、かつて手ぬぐいで顔を隠して踊っていたことの名残りである。

男性の踊り手は股引法被姿、女性の踊り手と地方は浴衣姿である。なお、これらの衣装はたいへん高価な素材で作られているため、雨天の場合、おわら風の盆の諸行事は中止となる。

男性の踊り手が着て踊る半天(法被)は農作業着を模している。これは木綿ではなく羽二重で作られている。

女性の踊り手が着て踊る浴衣は、胴まわりやの部分に、おわら節の歌詞が染め抜かれている。ただし、東町・鏡町の女性の浴衣には歌詞は染められていない。

女性の踊り手の衣装でひと際目立つ黒は、「お太鼓」に結ばれており、艶やかで大人びた印象を与える。この黒帯の由来については、かつてどの家庭にも冠婚葬祭用の黒帯があったので、踊り手たちが用意しやすかった、と伝えられている。なお、東町の女性の踊り手のみ、黒ではなく金銀の市松模様の帯を用いる。また、諏訪町と東新町以外では、黒帯(および東町の金銀の帯)に赤い帯〆をする。

小学生以下の踊り手は編笠はかぶらず、男の子は年長者と同様の法被姿だが、女の子は揃いの浴衣ではなく、各家庭で用意した普通の浴衣を着ている。ただし、東新町の小学生女子のみは、早乙女姿の浴衣に黒帯、黄色の帯〆という衣装で統一している。

なお、おわら風の盆の浴衣姿は、同じく編笠をかぶる阿波踊りの衣装と似ているようにも捉えられがちであるが、阿波踊りのように手甲や見せるための蹴出しをつけることはなく、編笠と足袋を履く以外は基本的に普通の浴衣姿であり、履き物も下駄ではなく草履である。

地方(じかた)は公式行事中(午後11時まで)は町内毎に決まった浴衣・草履姿だが、それ以降多くは各自思い思いの着流しに着替え、草履を履き町流しに出る。

関連文献 編集

  • 長田暁二・千藤幸蔵編著『日本の民謡 西日本編』、現代教養文庫、1998年
  • 越中八尾観光協会編『越中八尾おわら風の盆公式ガイドブック』、同協会、2003年
  • 『祭りを旅する3 東海・北陸編』、日之出出版、2003年
  • 成瀬昌示編『定本 風の盆 おわら案内記』、言叢社、2004年
  • 『日本の祭り12 中部2 おわら風の盆・吉田の火祭り・田立花馬祭り』(週刊朝日百科)、朝日新聞社、2004年8月22日号
  • 『越中八尾 おわら風の盆』、北日本新聞社、2004年

関連項目 編集

関連リンク 編集

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